2009年07月31日

知識病

第七一章 知識病

知らないことばかりだ、と
知ることが、
上等な知性なんだ。

何でも頭で知っていると思う人は、
病人といってよいだろう。
誰でもみんな一度は
この病にかかるがね、しかし
「知られない領域」からくる道(タオ)に
つながった時、ひとは、
この病からぬけでるのだよ、だって
自分が知識病を病んでいると知れば
とたんに
この病は病じゃあなくなるからさ。


タオ―老子 (ちくま文庫)

タオ―老子 (ちくま文庫)

  • 作者: 加島 祥造
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/10
  • メディア: 文庫




原文
老子道徳経
知不知上。不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病、以其病病、是以不病。

知りて知らずとするは上なり、知らずして知るとするは病(へい)なり。夫れ唯だ病を病とす、是を以って病あらず。聖人は病あらず。其の病を病とするを以って、是を以って病あらず。
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2009年07月29日

腕も治そうね

ネットラジオにSIONが出るというのでベッドに転がりながら聴いてみた。
パーソナリティの押谷沙樹ちゃんというコ。「ファンなんです〜ぅ」ってすごく緊張した様子で、もうもう歌がとか声がとかじゃなくてもうとにかくすごくて、全部が心とかを突き破って刺さってくるというか…みたいな感じでそんなことを目の前のSIONに一所懸命に話す声はもう震えていて今にも泣きだしそうだった。ラジオだから見えないんだけど、SIONもきっと、かわいいなぁ〜うれしいなぁ〜なんてデレデレの笑顔で見てたんじゃなかろうかw

押谷ちゃん(ってSIONのマネw)本人も曲を作って歌っているひとみたいなので、その曲作りとかの面での人生相談のようにもなっていたけど、それも許せるって感じの素直さとかわいさとキンチョー度合だった。

印象に残ったのは、SIONが昔ツアー中に突然声がでなくなって、なんでか全然出なくなって、明日も本番があるからってことで医者に行ったところ、「キミは喉も悪いけど、腕も悪いんだね」って、「腕も治そうね」って言われて、もう治るものではないのに、腕も治そうねって、それはSIONの口調でだけどなんだかとても自然でやさしい感じの医者の口調で、それを言われて「なんかがストーンと落ちて、それで声が出るようになったんだよね」って話していた。
声が出なくなった時のSIONの状況とかわからんけど、腕のことへのコンプレックス、あるいは思うようにならないことへのフラストレーションのようなものか、そういうもんはずいぶんあったのだろうと想像できる。SION本人がこの声が出るようになったことに対して解釈を与えていなくて、ただこういうことがあったんよ、で終わっている会話はなんだか、SIONの歌の歌詞とおんなじだなあとも思った。それでそのことはどんな意味があるのか?とかそういうことは、聞いた人の受け止め方に任せるっていう。

パーソナリティーとしてみたいな視点で見たら、個人的にファンで緊張しすぎて、言葉の上ではインタビュー的な問いかけにはなっていなかったり、こうなんだよってSIONが話したときに、上手い相槌が出てこないんだろうなって思えるような、「はっ」っていう息の音と1秒の沈黙が聞こえてきたりとかして、一面ではインタビューとして成り立ってないんじゃないかみたいにも思えるけど、そういうの関係なくその一生懸命で素直な気持ちが、逆にSIONの素直な心情を引き出したり、ふと思い出された過去のエピソードが聞けたりということに繋がったのだなあって思った。
たぶん普通の電波の放送だったらいくらラジオとはいえこういうの聞けないだろうっていうのが現状のマスコミで、だけどこういうマニアックなネットラジオとかであるからこそ、こんな息遣いまでが、いやむしろ息遣いだけが聞こえてくるような番組が放送されるのだ。すてきな番組だった。

UNIQue the RADIO 「Live for Life」
http://www.uniqueradio.jp/2009/07/29/002551.html
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2009年07月10日

瞑想と自然/J・クリシュナムルティ


瞑想と自然

瞑想と自然

  • 作者: ジッドゥ クリシュナムルティ
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 1993/12
  • メディア: 単行本



P21〜
(宗教とは)
私は宗教とは真理の探求だと言いましたが、しかしその真理は未知なるものです。それは書物のなかの真理ではなく、他人の経験でもありません。その真理を見出し、それをあばき、それを招くには、既知なるものがやまなければなりません。すべての伝統と信念の意義が掘り下げられ、理解され、そして放棄されなければなりません。そのためには、儀式の反復は無意味です。ですから、真に宗教的な人間は既成のいかなる宗教、いかなる組織にも属さないのです。彼はヒンドゥーでも、ムスリムでもなく、いかなる階級にも属さないのです。
P35〜
(自分自身とじかに触れ合う)
そこで私は皆さんに、皆さんははたして何かと触れ合っていますか、はたして自分自身と触れ合っていますかとお尋ねしているのです。(中略)で、皆さんは、どのようにしてこの全的な行為に至るべきかを教えてもらわずに、自分で見出してみなければなりません。これには「いかにして」はないのです。そのための方法も方式もないのです。教えてもらうことはできないのです。皆さん自身で精進してみなければなりません。いや、すみません。私は「精進」によって「努力」を意味しているのではありません。人々は努力することが好きです。何かをなしとげるには努力しなければならない−−−これは私たちの幻想の一つです。直接の触れ合いの状態は努力して得られるものではないのです。その状態にあるとき、そこにはいかなる努力もなく、ただその状態があるのです。ただ芳香があり、あなたは努力する必要はないのです。

そこで、自分がはたして何かとじかに触れ合っているかどうか、一本の木とじかに触れ合っているかどうか自問し、見出してみてください。皆さんはこれまで一本の木とじかに触れ合ったことがありますか?皆さんは、木を見つめるとはどういうことか、いかなる思考、いかなる記憶も自分の観察、感情、感受性、ぴんと張った注意の状態に干渉させず、従ってその木を見つめているあなたではなく、ただ木だけがあるようにしたことがありますか?
(中略)
ですからまず第一に悟るべきことは、自分の存在のいかなるレベルでも矛盾を生み出さないような全的な行為とは何か、自分自身とじかに触れ合うとはどういうことか、より高い自己とでも、「アートマン」、神、等々とでもなく、実際にあるがままの自分自身、自分の貪欲、羨望、野心、冷酷、欺瞞とじかに触れ合い、そしてそこから動くとはどういうことかを見出すことが必要だということです。すると皆さんは自分自身の目で、行為の源である精神が完全に沈黙しているときにのみ、全的な行為があるということを見出すでしょう。どうか見出してみてください。誰かの教示を待たずに。言われたとおりにすることは無意味なのです。
(中略)
すると、そのじかの触れ合いの状態において−−−もし皆さんがより深く調べてみれば−−−自分が自然、世界、自分のまわりのあらゆるものとだけでなく、自分自身ともじかに触れ合っていることに気づくでしょう。
自分自身とじかに触れ合うことは、精神が完全に沈黙し、それゆえあらゆるものとの関係において、自分自身と静かに触れ合うことができることを意味します。そしてそこから全的な行為が沸き起こるのです。無(エンプティネス)からのみ、全的で創造的な行為が起こるのです。
P159〜
(観察してみる)
皆さんのまわりの環境−−−木々、片隅のあの池、星々、新月、ぽつんとした明けの明星、宵の明星、日没の光輝−−−を観察するとはどういうことなのでしょう?もし皆さんが自分自身のこと、自分自身の問題、観念、複雑な想念でいっぱいなら、皆さんは見守ること、観察することができません。そうですね?もし皆さんが偏見に囚われていれば、あるいはもし何らかの種類の結論や特定の経験に固執していれば、観察することはできません。では皆さんは、木と呼ばれているこの素晴らしいものを、どのように観察しますか?皆さんはいま、それをどのように見つめますか?これらの木に囲まれて坐っているのですから。風にはためいている葉、葉の上の光の美しさを見たことがありますか?それを見守ったことがありますか?では、一本の木、新月、天空にかかっている一個の星を、言葉を交えずに見つめることができるでしょうか?なぜなら、「星」という言葉は実際の星ではなく、「月」という言葉は実際の月ではないからです。ですから、言葉を片づけて見つめることができるでしょうか?
皆さんは妻のことを言葉なしに見つめることができるでしょうか?彼女との関係がいかに親密だったとしても、その一切の思い出を交えず、すべての蓄積された記憶を交えず見つめることが?そのように、自分の妻あるいは夫を過去の記憶なしに見つめることができるでしょうか?そうしてみたことがありますが?(中略)もし皆さんが星、うっそうたる森の見方を知れば、そのときその観察には空間、永遠性が含まれているのです。ですから、皆さんの妻または夫を、どのようにして皆さんが彼女または彼について作り上げてきたイメージなしに観察したらいいかを一緒に見つけなければなりません。とても遠くまで行くには、ごく近くから始めなければいけません。
P177〜
(それ自体としてあるように)
自我、<ミー>を終わらせ、無(nothing)となるのです。nothingとは"not a thing"(無事物)を意味します。それはつまり、「思考によって作られたのもではない」ものということです。そのように無であることは、自分自身についてのイメージを持たないことです。が、現実には、私たちは実の多くの自己イメージを持っているのです。いかなる種類のイメージも、いかなる幻想も持たず、絶対的に無であること。木は、木自体にとって無です。それはただ存在するだけです。そして、まさにその存在において、それは最も美しいものであるのです。あの丘の並びのように。それは何かになったりしません。そんなことはできないからです。リンゴの木の種子があくまでリンゴであり、梨やその他の果物にはならず、それ自体としてあるように。おわかりでしょうか?そしてこれが瞑想です。これが探求の終わりであり、するとそのとき真理が現在するのです。

一貫していっているのは、人から聞いたことじゃなく自分で見出さなければいけないということ。

引用はしなかったが、世界の現状について、自然環境や戦争や人と人との関係の現状について、とても厳しい洞察をしていて、「あなたが」あるいは「私たちが」そのような今の世界を作っているという徹底して具体的に繰り返し繰り返し、それをしているのは「あなた」である「私たち」であるという言い回しが出てくるのに、読んでいる間なんかしらのストレスというかプレッシャーみたいなものを感じていて、それはなんとなく不快で納得がいかないような感じがしていた。でも、それを半ば我慢しながら読んでいるような感覚に時々なりながらも、最後まで読み続けてみて、ああ、と思った、これがまさにこの本の中で繰り返し言われている「自然と繋がっていない」という心の状態で、あのひどいことをやっているのは自分ではないと思いたい、いや実際に思っているのが今の自分なんだなあと。ここで「あなたが」と言われているのは実際に私自身のことであり、「私たち」というのはその言葉通りに「私」を含む人々のことなのだなあと。
本当にその関係をよくよく観察してみれば確かにすべてが繋がっていて、抽象的な意味ではなく、実際に今の私の生活と地球のどこかで起きている戦争や汚染は繋がっているということを感じる。知識として具体的に何がどうなって繋がっているとは言えなくても。だけどそのことをいつもいつも思っていられるわけじゃなくて、それでも何かの度に気づきながらやっていくことが大事なのだろうと思う。

誰も教えてくれない、というか、誰かに教えられたことはあくまでその人のもので、自分の経験でも自分の真理でもないということ。自分の人生の中での探求はやっぱり当たり前だけど自分にしかできないものなのだ。
posted by みつこ at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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