2009年08月31日

いい体調だと幸せになるなんてとっても簡単!

検索してたらさらにこんなインタビューを発見
http://www.mammo.tv/interview/archives/no232.html
232_pic_04.jpg

なんつーか、直観的に好きなのね、この人。
猫と一緒にインタビュー受けてるのもイイ。

70年代に運動をしてて、75年にメキシコに渡って4年放浪してそれから子ども産んで、、ってことは、私の親と同じ世代(かちょっと下)だよね。

自分の親らと比べることに意味があるかはわからないけど、自分の人生や置かれた状況に対する疑問や苦しみや悲しみは、やはり何らかのモチベーションとなり人生を大きく動かしていく原動力となるのだなあって思った。私の親たちはどうだったんだろうか?私から見れば、彼らは自分の親たちから与えられた価値観を受け取り大きな疑問を持たないでそのまま育ち、そりゃあかの組織で活動する青年時代とは、それなりの苦しみや悩みなどもあったであろうが、自分の存在そのものに対する疑問や苦しみとは本質的にはまったく別のものであっただろうという気がする。信仰をしているはずなのに、自分で自分のいのちや人生について深く考えたりしておらず、自分なりの考えを持っていないように思えて仕方ない。
そういう意味でやっぱり何度も書いているかもしれないが、私は親たちよりも祖父たちに共感を覚えるのだよなあ。(祖母たちはまた別だけど)

心とからだはまったく一緒なんだということです。「心とからだ」というと何か違うものがふたつあるような感じですが、心はからだで、からだは心です。その証拠に25年間鍼灸師をしてきて、からだの方は良くなったのに心は暗くなった…という人を私は見たことがありません。

心がクヨクヨしているとからだも悪くなる。気持ちの鬱々は心の方から解いていこうとするのが普通だけど、それだととかく気持ちが過去をさまよってしまう。「ああいうことがあったから、だから私は暗いのだ」とか「生育歴に問題があるからいつも不安なのだ」という具合に。

でも、心が過去にさまよっている限りは、この今太陽の光に心地よく包まれていることも、季節の花が目の前に咲いていることにも気づけない。物事すべて気づかなければないのと同じよ。自分にはいいことが何もない…と嘆く人は、気持ちが過去をさまよっているか、「ああなったら、こうなったらどうしょう」と将来の心配をしてるかのどちらかであることが多い。つまり「この今」を生きてない。「この今」がスカスカになっている。

ここにも出てくる「いまここ(この今)」。やっぱりそれがキモなんだね。

東洋医学では「七情の乱れ」といって、人は誰でも腎臓が悪ければ不安が強くなる、肝臓が疲れれば怒りっぽくなったり、やる気が出なくなる。消化器が弱ればクヨクヨしてくる、呼吸器なら憂いが深い人になるといわれている。

誰にとっても人生は理不尽なもので、思い通りにはいかない。時に憂鬱になったり不安になって当たり前。作家の角田光代さんは十代の頃気持ちが落ち込むとひたすら街を歩き続けたとか。歩けば血のめぐりが良くなって、気持ちのほうもドントマインドになってくる。

からだが良ければ、そんな風に気分を変えることもできる。でも私のように毎朝目が覚めるとすぐに「あぁーだるい」と思うような体調で生きていると、鬱うつとした気持ちから逃れる手立てがない。からだは心の入れ物なんだから、憂鬱は悪い体調のせいでもあるのに、そんなこと思ってもみなかった。ひたすら「過去にあーゆうことがあったから〜」と今の憂鬱に見合う物語を作って、それを唯一無比の真実と思い込んでいた。そのためにめちゃ暗い青春を送った。

幸せって状態です。つまり1個の肉まんに如何に喜べるかという問題です。からだが不快な状態では、楽しいことも楽しくなくなる。おいしいものを食べてもよくわからない。この今吹いている風の気持ち良さとか、犬猫を抱き上げた時の充実感といった小さな幸せに数多く気づいていくうちに、徐々に「今」に気持ちを取り戻すことができる。頑張るときには頑張って、でも頑張らなくてもいい時にはふーっと緩んで小さな生き物に自分を返す。

私の場合いい体調になって、小さな幸せを見つけては喜んでいたら、いつの間にか「生きてるっていいな」の人になれて、そしてトラウマの呪縛から少しづつ脱していくことができた。

もう声を大にして言いたい。いい体調だと幸せになるなんてとっても簡単って。そのことを知ってもらいたくて、25年間鍼灸師をしているようなものね。

こころはからだ、からだはこころ。なんだもんねー。

女で、チャイルド・セクシャル・アビューズというトラウマを負ってて、虚弱で、高等小学校出の学歴のない親のもとに生まれた。これらはまったく自分が選んだことではなく、いわばたまたまのこと。でもマイナスだと思っていたそれらの事柄は、気が付いたらすべて私のプラスになっていった。

たまたまチャイルド・セクシャル・アビューズを受けたために、「女であること」に拘らざるを得なくなって、でもそのおかげでリブの女になれた。つまり他人の目に脅えないで自分を生きていく強さを持つことができたってわけね。

そしてまた、たまたまからだが弱かったから、自分のからだをなんとかしようと鍼灸師になることができた。そして学歴のない分、頭や理屈で「ねばならない」と考えることの少ない親のおかげで、固定観念や権威にとらわれることなく生きてこられた。

それらのことを思うと、結局、この世に起きる事は完全に善いこともないし、完全に悪いこともないのでは…と思うのね。悪いことは悪いことだけを生むわけではないし、良いこともそう。

こういう親のもとに生まれたことも、気が付いたらすべてプラスになっていた。ってとこも、自分に当て嵌めることもできるなあって。学歴のない親というのは共通で、頭や理屈で考えることの少ない人たちなのもだいたい同じ。ウチの場合はそこからがだからこそなんだけど、幼少期に親と一緒に入った宗教を深く考えずに信仰しつづけ、それを自身の子供にも深く考えずに与えるという結果になっているのだけど。私はそのために遅まきながら自分の人生や信仰、価値観などについて深く考えざるを得なくなって、でもおかげで・・・ってその先をいま求めているところなのかもしれないな。求めなくてもいいのかもしれないけど。すでにそのおかげでこうやっていろんなことを学んでいるわけだし、でもそれはおかげで・・・っていうにはなんだかつり合いが取れないようにも思う。なんかまだやっぱり不満があるようで。でも、不幸ではないの、それは確か。

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インタビューをしたのはどんなサイトかと思ったら、「考える高校生のためのマンモTV」「いろんなジャンルの情報から『自分の頭で考えるヒント』を見つけ出すためのサイト」とな。高校生の時にこんなサイトがあったらなあ、なんてとりあえず言ってみるw。けど、当時の私がもしもこの田中美津さんの記事を読んでも、団体のバイアスかかったアタマだから今みたいにはきっと感じないだろうし、むしろ団体が教えているように都合のいいように解釈してしまってただろうなあって思う。

私はある意味で昔からフェミニストかもしれなくて、そしてその辺の問題にまだ自分なりの結論というか決着のようなものもまだ見出していないわけだが、もうそういうことは超越してしまいたいととても思うこともある。子ども産み育ててみてもいいんじゃないかな、結婚して苗字が変わってみてもいいんじゃないかな、って(まあ、どっちにしても相手もそれを一緒にしたいと望んでいる場合の話だが)。だけど、納得いかないまま妥協していいのかな・・・?っていう思いもまだ消えなくて、その周辺のことを考えると、思考が行ったり来たりするのがよくわかる。「迷っているんだな」っていまはそう理解している。自分に対して。

フェミニストかどうかとか、フェミニズムの考え方とかは別にどうでもよくて、自分の人生を自分で納得がいくように生きていけるかどうかってだけの話しなんで、敢えてここはジェンダー問題に特化した議論をしている人たちの意見を読んだりすることはなるべくやめてみようと思う。それよりも、もっと生き方全般、人生全般についての学びの方が大切だ、と思うから。

そして、いつもホカホカのからだであったらば、きっと、そんなのどっちでもよくない?ってにっこりできる自分なのだと思うわけだ。
posted by みつこ at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田中美津さん

ちょうど「新・自分で治す冷え症」を読んだ直後に、「カルトとスピリチュアリティ」の中でチラッと名前が出てきた田中美津さん。細かくは覚えてないけど、ニューエイジブームなんかに言及したくだりで、船井幸雄なんかと一緒に名前が挙げられていて、へぇ〜なんで鍼灸師なのに?となんか引っかかっていたのを思い出し、検索してみたら、Wikiには「1970年代のウーマンリブ運動の伝説的な指導者」「社会学者の上野千鶴子が私淑する人物でもある。」と書いてあった。あーびっくりびっくりw
上野千鶴子さんは、読んだことはないがなんとなく漠然とフェミニストな人?みたいな感じで聞いたことある。

「新・自分で治す冷え症」の中で、メキシコに渡って子育て中に体調を崩したのがきっかけで、体について興味を持つようになって鍼灸師になったようなことが書いてあったけど、そのメキシコに行くまでの時点ですでに伝説になっていたんですねこの人。どうも文章読んでてもただの鍼灸師じゃない、パワーのある人だなあって、具合悪いのに元気っていうか、持病を持っているらしいのに底力があるっていうか、そういう印象を受けたのも、もっともなことだったのだ。
posted by みつこ at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月24日

「僕」の目覚め

再び「ヘヴン」について。


僕が斜視の手術の後に両目で見た世界が美しくて涙するシーンで終わっているが、それはきっと世界は主観で成り立っていて、主観次第でどんな風にも変わっていくということのひとつの現われなんではないかと思う。

未映子本人がそれを言おうとしてこのシーンを描いたのかどうかはわからんけど、最近の自分の思索や読書の中では、瞑想の実践でもそうだけど、主観が変わることで世界が変わるということを、追っかけている面があるので、これもシンクロニシティなのかもしれない。あるいは自分がそういうことを求めているから、あえてそういうことを読み取ろうとしてしまうのかもしれないが。

僕が斜視の手術をした前と後とでは客観的な世界は何も変わっちゃいない、だけど僕にとっては両目で見る世界はこんなにも美しい。確かに物理的に斜視の視界とは遠近感がないとか、ものがダブって見えるとか、そいうことがあるらしいし、両目でしっかり見るのとは明らかに違って見えるのだろうけれど、これはある意味、いわゆる「目覚め」の体験と同じ質のものではなかろうかと。本当の現実の世界の存在を知った以上、もうマトリックスには戻れないぜっていうことで、ここから僕の新しい世界が始まるんだと。


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現実問題として、そもそもそんな手術の直後にちゃんと見えるのか?っていう疑問が残るが…。
posted by みつこ at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月22日

ヘヴン


群像 2009年 08月号 [雑誌]

群像 2009年 08月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/07/07
  • メディア: 雑誌



同い年の彼女が、1991年の中学生を書く、数えてみたら確かにこれは私たちの1991年だった、夏の日差し、なんとなくあの美術館が砧公園の世田谷美術館に思えて、いろんな意味でのリアリティ。

今までの作品やエッセイで登場するモチーフがあちらこちらに。斜視、濃い髪、黄金の雨、「しるし」、美術館で二人が見に行く絵の画家は私は絵画に詳しくないので絵の描写を読んでも具体的にこの絵のことだろうなんて分かりはしないのだけどきっとシャガール、と思った、それは彼女が唄っていたシャガールの印象と少ない機会だけど実際にシャガールの絵を見た印象とこの文章の中で描写される絵を想像してみた時の印象を総合して。(どこかのブログで絵を知っている人によればやはりシャガールみたいだった。)
コジマが「ヘヴン」と名付けた絵を二人は結局見ないまま帰ってくることになるのだけど、それはどんな絵だったのだろうか。

未映子が私の世界に現れ出てから投げかけられたたくさんのモチーフを確認しながら読み進めるのも、この小説の楽しみ方のひとつだなと思った。それは未映子の書いたものに限らず、著者の背景というか、人物そのものをある程度知って読んでいく、そして読み進めるに従ってさらに新しく知っていくことはひとつの楽しみ方なのだと思うし、それを知らないで読むのとは奥行き感が全然違うだろうと思う。

まだいろいろと思うことはあるが、思い出しつつちょこちょこ書いていこうかと。
posted by みつこ at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月20日

自らを欺く力をしっかり持つ

去年も一昨年も夏は忙しすぎて、こんな働き方はイヤだと思っていたのだけど、今年はもう暇すぎてびっくりする、ヘンな意味で願いは叶ってしまった訳で、おかげでヨガのクラスにも頻繁に通えてありがたいが、残業時間は月10時間に制限されて、そもそもそんなに残業する程仕事もないのだし、残業代込みで持っていた生活費なのでたぶん足りてないのだと思われる、でもなんかライブとか飲みにとかあんまり行かなくなったし、CDも本も買わないで図書館派になっちゃったし、まだ金がないー!という実感はない。まあ、自分一人生活できればいいわけなので、扶養家族がいる人からすれば気楽なもんだと思う。

たまに聞く同業者の話から判断するに、客はいるところにはいるのだと思う。昨年秋以来の下降期にちゃんと営業活動していればよかったんだろうなあ、とか他人事のように思う。(私は営業の人ではないので)

私はもうなんというか、営業的なことをやるつもりはないと自分で決めてしまっているし、そういう役回りではないと思うので、手配に徹することにしているが、営業とか担当とか関係なく、経営者で株主で取締役の隣のおばさんはホントにこれはあなたの、あなたたち夫妻の会社なんでしょうか?と問いたくなるほどやる気がない。やる気がないというか、私とおんなじ完璧な受け身態勢。そもそも性格的にそうなんだろうというのは同じようなもんなのでその気持ちはわからないわけではないが、だったらなんでなんの頼りもない言葉もしゃべれないこんな国に住みついて商売やっているのかということで、もう不満とかあえて感じないが、よくそんな身構えで15年近くもやってきたよなあと、不思議に思う。一応やらなくっちゃみたいな気持がないわけではないみたいで時々盛り上がってなんかやり始めるけど、だいたい長続きしないでフェイドアウトするってのをしょっちゅう眺めている。

以前はそういうの見てイライラしたりとかもしていたが、そのイライラも実は自分の先延ばし癖にそっくりなための同属嫌悪だということにうすうす気づいていて、最近はそれを受け入れるようになったためか、隣の人の先延ばしを見ても、ああまたやってるなーぐらいにしか思わなくなった。そして、経営者がそれくらいの気持ちでしかいないわけなので、従業員である私がそれ以上頑張る必要もないと考えて、自分の仕事じゃないことに対してそれの進捗に対して焦りやイライラを感じることも少なくなった。私は自分のやることを淡々とやるだけ。

まったく別の視点で、働くことについて考えれば、会社の利益は自分の収入に反映されるわけでもあるし、金銭的なことだけじゃなく、いうなれば倫理観とか?常識とか?価値観とか?知らんけどそんなようなものの理想に従えば、業績が上がるように努力をすることが従業員として求められているのだということもできるけど、自分については、仕事に限らずあらゆる関係性において、全部が自分の責任のように感じる過剰な罪悪感を持ち続けて生きてきて、それをやっと手放しつつあるところであるし、自分の働きが何にどこまで影響を与えるのか実際のところ判断できないわけでもあるので、当面は自分の働きと会社という組織の経営についてをすぐに繋げて考えるのはやめておき、まずは自分自身の中で働くことに対するスタンスについてちゃんと考えてみることから始めたいと思う。

今日たまたま読んだ記事で、ケン・ウィルバーの翻訳とかをやったセラピストの吉福伸逸氏と日本トランスパーソナル学会の向後という人の対談で、職業、天職などについて、興味深い内容があったので、引用しとこうと思う。別の記事でシンクロニシティについても書かれていたけど、これこそまさにシンクロニシティで、なんか考えてる時にうまいことそのテーマで触発されるようなものに出会ったりする。
吉福さんは翻訳はやったけど、持っている思想としてはケンとはまた別の考え方を展開しているらしい。

向後:例えば、「天職を見つけるというのが、自己実現(用語解説2参照)」みたいな誤解が、一部にあるんじゃないかと思うんですね。

吉福:うそだぁー。

向後:そう言う感じの雰囲気があるんですよ。例えば、いわゆる「自分探し」をしている人たちや、それをサポートしているセラピストなんかにね。
あれね、すごい違和感を感じるんですよ。
なんだか、職ありきみたいな感じでね。職と言う枠組みの中で、自己実現というものを限定してしまおうとするみたいなことが、時々見受けられるんです。自分探し=天職探しみたいなね。
「そうじゃないだろ?」って思うのですが・・。
場合によっては、職と言うのは、お金を稼ぐだけでいいというのだってありだと思うんですよ。

吉福:生きていくだけのね。

向後:生きていくだけのね。

吉福:お金が介在しないでそういう生活できる場だってあるじゃないですか?

向後:例えば?

吉福:例えば、どっか耕すところ行ってさぁ、畑でも耕しながらさぁ・・。遠い離れ小島に住むとか。そういう人もいるじゃないですか?

向後:それもそうですね。
それから、たとえば、17世紀辺りまでの数学者なんか、まったくお金になってないじゃないですか?まったくね。あれは、職業と言うよりも趣味ですよね。
フェルマーの定理を作ったフェルマー(用語解説1参照)さんなんかも、たぶん趣味でやっているわけじゃないですか?プロじゃなくて、アマチュアですよね。それでも数々の実績をあげて、それで、とても満足しているわけです。

吉福:それで充分自己実現しているわけですね。

向後:だから、職イコール自己実現なんていうのがね・・。

吉福:そんな風潮あるの?

向後:なんとなくですね。全部じゃないけれど、そんな感覚を持っている人たちがいると思うんですよ。「天職をみつけよう!」っていう言葉のなかに、天職を見つけることが自己実現みたいな意識があるように思うんですよ。その結果、自己実現のための職探し・・なんて感じになってしまうことがあるんです。
でも、実際には、そんな天職がみつかる、つまり、職と言う方向が自分の自己実現の方向と一致している人なんていうのはまれなわけで、結局は、「これが、僕の天職で、この方向で行けば、自己実現できるんだよね?」と、自分をむりやり納得させていくということがあると思うんです。
本当はね、そういう人たちのすべてとは言わないけれど、かなりの人たちが、自己実現というより、社会の中で居場所を探しているわけだと思うんです。それ自体は、けっして悪いことではないのですが・・。

吉福:それはさ、非常に原初的な部分で、人間性心理学で言えば、ベーシックなベーシックな段階の充足感にしかつながらないじゃないですか?

向後:マズローの欲求の段階(用語解説3参照)ですね。

吉福:そう、マズローのね。所属意識ですよね。自己実現でもなんでもないですよね。

向後:そのへんが、なんとなくごちゃごちゃになっているような状況があるように思いますね。ベーシックな段階の充足感を求めるのは、それはそれで重要なことですが、そうした欠乏欲求と、成長欲求がごっちゃになると変なことが起こると思います。
そうなると、まずは、社会に戻すのが一番いいんだ、そこから始まって、次は自己実現だという感じになってしまう。

吉福:それは、強く感じるんですよ。日本にいるこの5〜6年、ハワイで十数年過ごした後に、帰ってくるたびに、常に、自分の中で、なんだろう、なんでこんなことしているんだろうと思うんですね。
僕がみんなに示そうとしている人間像と言うのは、皆が求めているものとは違うと言うことがすごくはっきり僕の中あるんですね。
でも、(日本の社会の中に)どうしても社会的に機能していく人間になっていかないと、まず社会が満足しないし、社会が満足しないと言うことをベースにして、本人が満足しないということがあるんですね。
僕は、それではおかしいとすごく感じている。
まあね、向後さんが事務局長をおやりになっている、なんとかという学会(日本トランスパーソナル学会のこと)ではね、昔僕がやっていたんですけど、基本的にまず健全な自我を確立するなんていっていましてね、健全な自我を持つと言うことは、社会的に機能すると言うことで、つまり、自らを欺く力をしっかり持つということなんですね。

向後:ははは、いやー、僕らは、「自らを欺く力をしっかり持つ」なんて言ってませんけど(笑)。

吉福:でも、あのほら、明らかに、自らをはっきりと欺いて生きて、なんの疑問も感じないことが健全な自我を持つということなんですね。
ケン(ケン・ウィルバー;トランスパーソナル心理学の理論家のこと)なんかが言っているのは、そこを通過しないとその先には行けないって話があるじゃないですか。僕はねぇー、そこにすごく大きな疑問を感じているんです。そういうこっちゃないですよね。

向後:そうですね。

http://transpersonal.jp/archives/1356


「自らを欺く力をしっかり持つ」なんてそれをはっきり意識してやっている限りとっても健全なことかもしれないね。
posted by みつこ at 18:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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