2010年08月29日

いつかじゃなくて「いま」

自分の中でずっとなんとなくしっくりこないアーサナのナンバーワンだったトリコーナーサナ(笑)。
Trikonasana.jpg

今日のヨガのクラスでも、なんとなく、まあこんな感じ?ってところでキープしてたら、ティーチャー接近してきて、あと10cmくらい足のスタンスを広くして、しっかり膝を伸ばして前足の股の付け根をもっと後ろにひく、手をつく場所も足の横じゃなくてもっと手前のすねの横辺り、っていうアジャスト。こりゃなかなかキツイですよ、でも胸がいつもより断然開く。

そう、なーんかなーんかしっくりこないといつも感じていたこのアーサナ。前の足の内側の裏のラインが伸び過ぎな感じで痛いのが一番気になるところで、それがために思い切って膝を伸ばすことを躊躇するし、そこに気がかりを残したままだから上半身の伸びも気持ちよさが今ひとつって感じで。

でも、繰り返しやっているうちにだんだん改善するかな(確かに前よりはだいぶよい)、とか、そのうちなんかの機会に先生に聞いてみようかな、とかとか、思っていたんだけど、そうじゃないね、いつかなんていつくるかわかんないのに、それを知ってるのに、苦手なことに対してはそれを適用しちゃってたね、これって私のいわゆる先延ばし癖全般に言えることかもしれない。いつ来るかわからない「いつか」のことなんて思わずに、「いま」やってみましょうぜ。ってことだ。まさに今がその「いま」だってことだ。

ティーチャーにも、足の土台はもうできている、あなたの体側はもっと伸びたがっているよ、思い切って広がってみよう、と言われました。

トリコーナーサナでぐぐっと胸が開いて、足はキツイ〜〜と思ったけど、やっぱりそこで踏ん張ったときの上半身の開きは大きくて、その後の座って前屈のポーズをしてるときに大きく息を吸ったら胸の肋骨の真ん中のつなぎ目のところがパキパキッといってさらに開いた、どんだけ時間差(笑)。
posted by みつこ at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月26日

自由自在

なんか恒例になってきたFunk'A'dads Psychedelic Edition@学芸大メイプルハウス

たぶん裕二さんが最年少じゃないかと思う、ベテラン揃いのバンド、すごい技術と経験で、ものすごい高いところを自由自在に飛んでいる感じ、だけど超リラックス、みたいな。
まあ、いつも通りなんだけど、なんかなー昔から好きだと思っている人たちを好きだと思う気持ちの、奥行きが出てきた感じが最近とてもする。いろんなこと思ったりしてまた顔が勝手にほころんでたら、斜め後ろからねーさんに目撃されてたみたいで「なんかにやにやしてた」と言われた(笑)。

いつものようにゆっくりと飲み、飲ませ、ねーさんと裕二さんとでフツーにフツーの世間話をするだけなんだけど、ホントにここはリラックスできて楽しい。

なんかこういう感じももう何年も続くと、もはやただの飲み仲間ぐらいに思われてるんじゃないかという感じにもなるが、それはそれで嬉しいことでもあり、ファンとしての嬉しい気持ちは大事に持ったまま、このまま自然体でいりゃいいかと。

なんにせよ楽しかった。程良く飲んで楽しめるようになったこの健全さの気持ちよさよ!(笑)。
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2010年08月24日

冷えと頭痛

昨日は朝から、すんごく久しぶりに頭痛。こめかみあたりを中心に全体的にズキズキとする感じ。ちょっと動くと(駅の階段を上るとかそれくらいのことで)、途端にズキンズキンとひどくなり、頭の血管が全開なのではないか?!という感覚。そして、電車や職場の冷房がいつも以上にきつく感じる。

最近なんとなく右側の首筋から肩にかけて凝り気味だなあと思っていて、やっぱり職場で冷房の風をあびて冷えてるせいだろうかと思いながらも、ヨガやったり、時々ゆっくり動かしたり触ったりして、温めたりほぐしたりするくらいで特に何もせずにいたからそのせいかな・・・と。まあ、耐えられないほどでもないし、静かにしているとわりと治まるので、そのまま静かに一日を過ごしたんだけど。

ウチに帰ってきて、久々に頭痛がしてさーって話しをしていて、なにか思い当たることは〜と探っていたら、この週末、首〜肩の凝りもそうだけど、元冷え症の(や、まだ卒業しきれていない)私でもさすがに暑いぜーと言って、調子に乗って氷を入れた飲み物を1日1〜2杯飲んでいたのだった。だって、どんなに暑くても、冷たい飲み物をほとんど飲まず、水分と言えば白湯、みたいなことを何カ月も続けていたのに、2日も3日も続けて氷が入った飲み物が来た日にはそりゃあ冷え冷えに逆戻りってもんですわ。

そして、ウチの人の見解によると、血管は全開になっているのではなく、むしろ逆で、冷えて縮まっているところに、暑さや運動で血流がアップすることで急激に血圧が上がってズキズキとなるのだと。納得。

そういうわけで、首と肩の凝りは直接原因ではないらしいということになり、あったかい食べ物、そしてそういえば最近しばらくシャワーで済ませていたな、と、半身浴。半身浴した時点でだいぶラクになったな〜って思ってたんだけど、今朝起きたら素直に治っていました。

体の外に冷房による冷たい空気があることは、物理的にはなくすことはできなくて、防寒とかそういうことで対策するしかないわけだけど、体の中からの冷えは、自分が食べたり飲んだりするもので変わるのだし、そこはちゃんと見ていてあげないとなーと痛感。

今回久々に1日の頭痛でもそれなりにつらいもんだと思ったので、慢性的に頭痛発生していた数年前までの自分がそれだけでもあんまり元気じゃなかったのは当たり前ね、と思った。そりゃ理由は頭痛だけじゃなかったけれども。
posted by みつこ at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月19日

NOWHERE MAN

ケン・ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚
「二のない一」について読んでいたら、すごいタイミングでiPodからシャッフルされて転がり出たようなビートルズ「NOWHERE MAN」。前奏もなくてアカペラ唐突に、"He's a real nowhere man..."と聞こえてきて浮かんだイメージは今まで日本語訳で見たことあるような「ひとりぼっちのあいつ・・・」みたいなものでは全然なくて、どこにもいない人、どこにもいないからにあらゆるところにいる人、どことも言えない場所にいて、どこにもない場所であるからにあらゆる場所がそこであるとも言える、そんな感じのイメージが広がる。本当はどっちの意味なんだろうな、両方かもしれないけど。作った人に聞いてみないとわかんないけど、作った本人もわかんないのかもしれない。

Nowhere man, the world is at your command

次元や延長をもたない点、持続や日付をもたない瞬間、それが「絶対」である。それはどこにもなく、あらゆるところにある。これが偏在〔あまねく、ある〕ということの意味である。絶対とは、同時にあらゆるところに現前し、あらゆる瞬間に完全に現前する。「どこにも神を見ないものは、事実どこにも見ない〔nowhere=now-here今、ここ〕ものとしての神を見る」のである。



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2010年08月18日

今日の全部を

昨日は普段あまり行かない曜日のクラスへ、この先生のクラス自体も2〜3回目くらいかな。

以前にこの先生のクラスを受けたときもキツかったなーっていう印象で、今回もやっぱりそんな感じだった。今経験したいヨガのタイプとは違うのかな・・・という感じ。呼吸法と瞑想の時間が少ないというのは、他の一般的なクラスにも言えることなんで、同じだけど、さらに、この先生のクラスはアーサナの構成そのものが立位に偏りすぎているうえ、ふっと息のつけるちょっとした隙間がない感じ。自分の中でペース配分がうまくできなかったせいもあるけど、中盤以降どんどんと体力的なキツさだけが自分の中でクローズアップされてきてしまって、こりゃだたの筋トレなのか?!という感覚が起きてきた直後に、ふと「今日の全部を」って言葉が浮かんできた。

別に強制的にやらされているわけでもなし、筋肉的に体力的にキツイとかは、自分で調整すればいいことで、それでもちょっと休んだり易しいほうのバリエーションを選ばないでこのアーサナをとっているのは自分の選択なのに、なんでインストラクターに対する不満のような気持ちを起こそうとしているのか、と自問。それに、たとえば今日のこのクラスで頑張りすぎたとして、それがなんなのか?死ぬわけじゃなし。

そんなことが数秒間、頭の中をめぐって、、、
いまここにいて、このヨガのクラスで練習しているということに、私の全部で参加しよう、今日の全部をここにいる私に捧げればいいじゃないかって気持ちになってた。

ま、お陰で今日は筋肉痛だけど(笑)。

いつものクラスでいつもの先生で、この流れが好きで落ちつくっていうのがあって、それの繰り返し、積み重ねで、何かができるようになったり、何かがわかるようになるという場があるのは大事だけど、たまにはこうやっていつもと違う負荷がかかることで、感じること気づくことっていうのもやっぱりあるので、そういう刺激も必要だよね。

そして、出し惜しみせずに今日の全部で取り組む姿勢も。
posted by みつこ at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月17日

わかりません、とわかること

ほぼ日糸井さんの昨日(8/16)の「ダーリンコラム」にて、、
<わかりませんと言えなくて。> の抜粋

目の前に、
メモと鉛筆を持った大の大人が
まじめな顔して訊いているのに、
「それは答えられない」だとかね、
「わかりません」と言うことが、
どれほどむつかしいかわかるだろうか。

(中略)

で、ことばとしては成立するようなことが、
しゃべればしゃべれたりするものだから、
目の前の記者なり編集者なり司会者なりに向かって、
「ぼくが思うには‥‥」なんてことを、
ついしゃべっちゃうんだなぁ、
ほんとはわかってもいないことについてもね。

これをくりかえしていくと、
そんなつもりなかったのに「万能のじぶん」が育っていく。
そういうことは怖いんだよなぁ、と知っていても、
そういう「万能のじぶん」になっていくものだ。
気をつけて気をつけてはいたはずだけれど、
ぼくも、そういうものになりかけたし、
いまだって、安心していられないとは思っている。

http://www.1101.com/darling_column/2010-08-16.html

こんなとこに、ダライ・ラマ法王を引き合いに出しちゃうけど、あの人、あのお方、質疑応答コーナーで頻繁に「I don't know.」と言ってた。記者会見とかの質問でもそんな返答をしていたらしい。そんなこと俺に聞かれたってねーって感じ?でも、その後、自分なりの考えを答えたりもするんだけどもね。

わからないことをわからないって言えることはシンプルなことなんだけど、いといさんも言っているように、実はとってもむつかしい。私は長年「わかりません」とか「できません」とかを言えない人だったし、いまもその傾向は根強く残っている、だいぶマシだけど。

ひとつは、「目の前に、メモと鉛筆を持った大の大人がまじめな顔して訊いているのに」、「わかりません」と言うことのむつかしさ、

「ことばとしては成立するようなことが、しゃべればしゃべれたりする」から「ついしゃべっちゃうんだなぁ、ほんとはわかってもいないことについてもね。」っていうのホントよくやってることだよなあって思う。「サービス精神なのか、虚栄心なのか、負けず嫌いがこうじたのか」、、、

もうひとつは、「『「わかりません』とわかる」ことのむつかしさ。
こっちはもっと繊細で複雑で。
「わからない」ということをわかるむつかしさ。それはどれだけ注意深く自分を観察できているかということに繋がるんだろうな。

でもね、もういっこ思うのは、実はわからないんだなあってことでもその場はなんか言っとかないといけないような時は、それなりになんか言っときゃあ別にいいと思うの。その時に、いま私はホントはわかってもいないことについてなんかしゃべった!ってことを忘れなければね。社会生活にはそんな場面がいっぱいなんだし。

そんなこと考えてたら、「自らを欺く力をしっかり持つ」なんてことについて以前どこかで読んでブログに書いたよなーと思い出した。ちょうど一年前に書いていたみたい。

社会の中で機能する人間としての言動に限定するならば、自らを欺いていることに気づき続けながら、そしてそうすることを選択している自分に気づき続けているのだったら、無意識にわかった気になっちゃうよりも健全なんじゃないかなーなんて思う、でもなんにしてもそんなに簡単ではないけど。

もちろん、もっと個人的な、あるいは普遍的な経験や考えについては、自らを欺いてもなんもイイこともないし、それはある意味、自傷行為になると思うけど。
posted by みつこ at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あっつい夏の空はあの日


クロベエとしてはいま体を持っていないので
ジョージア、代わりに飲んどきますね・・・。
posted by みつこ at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月16日

存在することのシンプルな感覚

悟りとは「自己の本性を直接に見る」ということであり、この直接という意味は顕微鏡で細胞核を見る時の直接というのと変わりはない。二つとも同じように重要な条件があって、それは見るためには、訓練された眼が必要である、ということである。
−−−『構造としての神』(1984)
存在することのシンプルな感覚/ケン・ウィルバー(P.221)
posted by みつこ at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハンドスタンドで向こう側に行きすぎたとき

ハンドスタンドについて書くのはもしかしたら久しぶりかも。
まだ、一人で上がれるようにはならないけど、地道にちょこちょこやっとります。

今日のクラスでハンドスタンドでペアを組んだ隣の人は、ハンドスタンドが初めてみたいで、最初から「私はできないと思います」って宣言(笑)。まーまー決めつけなくていいからやってみよーよ、私だってできないかもしれないけどそれは言わずにとりあえずやってみるわけだし、と心の中で話しかけつつ。

自分で上がっていって、骨盤だけ支えてもらうバージョンだったので、なかなか上がれず、半ば持ち上げてもらった感じで足が上がったら、パートナー支えきれず、あっち側に行きすぎてすんごく反った状態になり、パートナーは反った角度で支えるのがやっとでテンパってて押し戻してもらえそうになく、先生か近くにいる誰かが気づいてくれて戻してもらえないもんだろうかと、さかさまになりながら数秒間(実際には0.何秒とかだろうけど)、人を頼る気持ちを起こしていたんだけど(笑)、どうやら誰も来なさそうだなーと感じて、じゃあどうすんべ、自力で戻るのってどうするの?まっすぐ上がってるときは片足を下せば自然におりるからおんなじことすればいいのかな?こんな感じ?と左足を腹の方に下ろすようにしてみたら、下りれた。

さかさまの時は、自分の体の上下前後左右の感覚が混乱するので、どこにどう力を入れるとどっちに動くんだっけ?っていうシンプルなことが瞬時に判断できなくなったりもして、最初のうちはあたふたするんだけど、慣れてくるとそれもまた興味深いことだと観察する余裕も(多少は)出てくるもんだなあ。

さかさまの宙ぶらりんのまま、わりと冷静に考えてた自分がおもしろかったのと、もし、今度またこんなことになっても、もう下り方がわかったから大丈夫というのが今回の経験。あと、行き過ぎちゃったってことは、逆に言えばパートナーを信頼して飛び込むことができてたってことだから、それはよかったことだと思う。

以前にペアでハンドスタンドやった時も、ヘンに腰が反ったままうまく修正ができなくて、う〜ん、、、となったことがあって。確かに補助している人が相手の状態にどれだけ気づいてうまくサポートできるかというのももちろんあるし、自分が補助する側になったときは、できるだけ相手が安心して力を発揮できるようにっていうことを心がけているんだけど、まあ、最終的には自分の体は自分で支え、自分でコントロールせねばいかんのね、当たり前だけど。
posted by みつこ at 02:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月14日

胸を開く

昨日のアヌサラ・インスパイアド。
そんなに少人数でもなかったのに、結構何度もアジャストに来てくれて、なんだかそのタイミングも良かった。
シャヴァーサナの肩のリラックス、アジャストしてくれたティーチャーの手がホントにホッカホカでびっくり。そして、力抜いてるつもりでも意外と抜け切れてないもんだというのを再認識、とともに、人と接触する時の緊張感というのは、以前に比べるとだいぶ抜けてきたけど、それでもまだ残っているものだなあと、改めて認識。

姿勢はずいぶんよくなってきたと思うけど、胸の特に上の方、鎖骨の辺りの開き、それに連動して肩の開き、肩甲骨を寄せて下げる動き、その辺りはまだ改善の余地ありだなあって。呼吸の深さにも関係が深い上半身の開き。喘息が完治していないからだでもあるので、「胸を開く」ということを今まで以上にまた意識して生活してみようと思った。

そういえば、少量ながら続けていた喘息の薬(吸入式のパルミコート)をやめてみていま2週間ちょっと。多少の痰のからみや咳が出たりはあるにせよ、発作はまったく起きそうにないし、咳が出てもすぐに治まるので、このまま要らないんじゃないかという様子。「胸を開く」を並行してやってけばなおヨシって感じだ。
まあ、たまには調子悪くなるだろうけれど、引き続き経過観察しつつ、住環境とか食事とかの面も気を付けて、ずっと薬なし生活になれるといいなあと。
posted by みつこ at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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