2010年10月30日

それでも発すること

黙っていればいいじゃない、と長いこと思っていた。
どうせホントのことなんてわからないのだから、なにを言ったってすべて不完全なのであるなら、無駄口叩いてないで黙っていればいいじゃないって。


ライブのことを思い出し、反芻していると書いておかなければ!自分のためにって、思うことがてんこ盛りでただただ長くなっていく。それはそれでいずれ思い出せなくなる記憶のために、いつか読み返したいかもしれない自分のために必要かもしれないんだけれど、それと並行して記録とは違うものの表現が出口を求めて渦巻いていることも感じる。

ライブのことも、そしてそれ以外の日々のいろいろも、どうやって出していけばいいのかがわからないものがずっとからだの中のこころの中に流れ続けていて、それは心地よいものでもありずっとそのまま流し続けているそれだけで満足だという気もする。だけど最近やけに強く思うのは、これはきっと自分だけのものではないのではないかということで、自分が誰かの発したものに触れて、いろんなことを感じたように、誰かにとってのそういうものであることができるんだったら、自分の中にだけ留めておくのはなんだか違和感があるんだ。いつか必ず死ぬんだから、ひとりで持っていても仕方がないものだらけだ。
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2010年10月26日

紡ぐ

からだやこころのなかに発生した感覚がある
あるいはどこかから受け取った感覚がある
それをなんらかのカタチにして外に出すのは
糸を紡ぐ作業に似ているのかもしれない

ちっともスムーズな糸になってでてこない塊が
ここに溢れかえっているのだけど
これを紡ぐことは自分の居るところを整えるために必要な作業で
そうして紡がれた糸が世界にでてゆき、
誰かをあたためるものの一部になれる可能性があるなら
そのイミでもやはり必要なことなのだろう

誰かの紡いだ糸と一緒に織るのもいい
美しい蜘蛛の巣のようになるのもいい
空から垂れ下がる一本になるのもいい

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2010年10月25日

一時離脱

自分にはコントロールできないとわかっていることを気に病むのなら、そもそも物理的にそのきっかけを自分で作らない、作れないようにするしかないのでは。

中の人は理解はしているんだよね、そもそも人の行動は自分がそうしてほしいと思っているようにはならないということ、それだからと言ってそれが自分のせいなんじゃないかとか思う必要もないということ、期待する反応がほしいのだったら最初からそいういことをする人じゃないとわかっている人は選ぶ対象じゃないということ、それがわかった上で、誰かに何かしてほしいとかこうであってほしいとか思うことと、期待する言動か伴っていてもいなくてもその人と人間関係やなんらかのやり取りを続けようと思うのかどうか、自分にとってどっちが優先なのかということから考えてみないといけないということ。

全部わかっているはずなのに、その目の前のやっぱり期待したようにはなっていかない現実と、それに反応しちゃう気持ちと、自分の欲求と、そういう感情にある程度は巻き込まれている状態、それも含めていろんな人たちとの人間関係なのだとも思うし、これもリーラの一部かって笑える瞬間も多いのだけど、それでももうそんなにしょっちゅうこんなことしててもしょうがないでしょうが!っていう中の人の判断で、適宜、物理的離脱を試みる。ちょっと様子見てみる。
ラベル:人間関係 エゴ
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2010年10月24日

人間はまったくどうにもならんぜ

膝で遊ぶ猫を見てほとほと思う
人間はまったくどうにもならんぜ
見栄っ張りで欲張りでそして寂しがりで
勝たなくていいのさ/SION

わかったようなつもりにならない方がいいよって自分に思う。
「人間はまったくどうにもならんぜ」だよ、ホントに。

気持ちが走りすぎてる。まったくなんのつもりなのか。
ホントに、見栄っ張りで欲張りで寂しがりで、、なー。

その気持ちはどれも正直な気持ちで、それは否定するつもりはないけれど、そんな自分を卑下するつもりはないけれど、そのことで自分自身が時々困っているのも本当のところで、そうなのだったらやっぱりなにかが健全じゃないのかもしれない。


でもね、
またちょっと歩いて座って空を見て息をして
思い直してみるに
ああ、この苦しいのも、悲しいのも、
全部自分が求めてることなんだなあ
嬉しいのや、楽しいのと同じように、
自分で求めて経験してることなんだなあ

いいもわるいもないよなあって
笑ったりもできるのさ
納得しちゃったりもするのさ

人生に起きることはぜんぶがぜんぶ
呪いであってお祝いである

こんな夜は猫にくるまって 猫に一から教えてもらうさ
勝たなくていいのさ 負けなけりゃいいのさ
勝たなくていいのさ 降参しなきゃいいのさ
いいのさ いいのさ このまま真っすぐ いけよ
posted by みつこ at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月23日

お月さんとSIONとMOGAMI/SION-YAON 2010 with THE MOGAMI

ずっと反芻してる、頭の中でか心の中でかわからんけど。
SIONの声や言葉や表情、MOGAMIの音や、風や月のあかりや、いろんなこと。


とりあえずセットリストだけ、とりあえず、とりあえず、、、


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セットリスト

SION-YAON 2010 with THE MOGAMI
2010.10.23@日比谷野外大音楽堂

光へ
住人
SORRY BABY
薄紫
コンクリート・リバー
石塊のプライド
勝たなくていいのさ
カラスとビール
狂い花を胸に
ちいさな君の手は
遊ぼうよ
砂の城
どんなに離れてたって傍にいるから
鏡雨
Hallelujah
新宿の片隅から
マイナスを脱ぎ捨てる

-EC 1-
お前の空まで曇らせてたまるか
からっぽのZEROから
燦燦と

-EC 2-
彼女少々疲れ気味
そして あ・り・が・と・う
たまには自分を褒めてやろう
このままが

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ラベル:SION ライブ
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2010年10月20日

足の強化月間

8月頃から自分の中で「足・脚の強化月間」と名付けてるものがあり、月間と言っても、月の途中から始めてるし、1ヶ月以上言い続けててすでに「月間」でもなんでもないのだが、、、(笑)

ある日、腕全体が筋肉質になっていることに気づかれちゃったんだよね(笑)。なんか、、、筋肉質になったなって、そんなに筋肉あったっけ?って(笑)。自分でも気づいてはいたんだけどもね。特別に鍛えようと思ってやっているわけじゃないんだけど、腕で支えるアーサナとかを研究しながらいろいろやっているうちに知らず知らずずいぶん強くなっていて、ドライヤーで髪を乾かしながら鏡の中に見た上腕にいわゆるあれよ、いわゆる力こぶってやつよ、あれがポコッと出ているのを発見してさすがに、おおっ!と思ったですよ。

で、腕はもう充分強くなってきたみたいだからいままで通りのプラクティスを続けてればとりあえず大丈夫だろうと思い、今度は足・脚を意識してみることにしたわけです。筋肉とかの問題以外に、結構むくみがあるし、股関節を中心に左足が疲れやすかったりなどなど気になる点もあるので。

でも足もヨガを始める前と比べると充分強くはなっていて、それがはっきりわかるのは、足指が全部離れてぱっと開くようになっていることと、足の親指だけを前にグイっと押しだすことができるようになっていること。

これはもう地道に毎回のクラスが始まる前に自分で決めてやってた準備運動のなかで、必ず足指をグーチョキパーしたりしてたののお陰かと思う。定期的にヨガのクラスに通うようになった頃に、ちょっとヨガの本でも読んでみようかーって、たまたま最初に読んでみたのが成瀬雅春さんの「ハタ・ヨーガ」だったんだけど、その中で紹介されてた準備運動の中に、足指の運動があったんだよね。で、足指の開閉グーパーするのは、もとから普通にできたけど、チョキの2パターンのうち親指を立てて他の指は押し出すってのはできても、その逆に親指は押し出して他の指を立てるっていうのが、まず意味がわからん!と思った。どこにどう力を入れればそのように動くのかってのがわかんないんだ。

でも、やってるうちにできるようになるという言葉を信じて(?)しつこくやってるうちにいつしかできるようになった。意識してそこに力を入れようとすることの繰り返しで、神経の回路が繋がった感じなのかなー。あとは、特にアヌサラのクラスでは「あしを強く」ってよく言われて、具体的には「足指をぱっと開く」というインストラクションが結構あって、そのお陰で忘れそうになるたびに脚への意識が戻ってくるというのもある。

そして、この動きをするときに使う筋肉は足全体の内側のをしっかり働かせることにも繋がっていると、だんだん気づいてきた。脚の内側、すなわちからだの中心線にあたる部分を強くすることは、からだ全体の安定感にも大きく影響を与え、さらに精神的な安定(いわゆる「腹がすわる」感じ)にもそのまま繋がっているってことが体感でわかった。

足の筋肉は外側の方に大きい筋肉が集まっているそうなので、無意識でいると外側に体重を偏らせた方がラク。それは確かにそうで、足裏の外縁に体重をかけて、いわゆるO脚気味になって立ったり歩いたりしている人、特に女性によく見かける。でも、これだと力はみんな外側に逃げてしまって安定しないし、骨盤もぐらぐらで、いろいろと不調の原因になりそうだなと思う。

足の強さと言っても、単純に物理的に足の力が強いかどうかだけじゃなく、からだ全体から精神的部分までも含めて、引き続き強化月間&観察を続けてみよー。
posted by みつこ at 13:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

泣くな


泣くな、愛しい人よ、泣くな

生きろ、心が止まるまで

それはいつか私に投げかけられた言葉
そしていまもこころで響き続ける声
posted by みつこ at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

円環する時間

ユリイカ2006年8月臨時増刊号 総特集=アーシュラ・K・ル=グウィン 『闇の左手』から『ゲド戦記』まで [ムック] / 青土社 (刊)
ユリイカ2006年8月臨時増刊号 総特集=アーシュラ・K・ル=グウィン 『闇の左手』から『ゲド...

揺るぎなさに至る旅 アーシュラ・K・ル=グウィンの哲学(小澤英実)

2 ル=グウィンにおける両義性のモラル
 神話は、したがって、哲学者たちの無−矛盾の論理との対照において、曖昧なものの論理、両義的なものの、極性の論理と呼ばれ得る一つの論理形式を作動させる。ある項の反対物のうちに、離れた他のさまざまな視点から両者を保持しつつ、逆転させてしまうこれらのシーソーの操作を、どうやって定式化すれば、さらにはどうやって形式化すればよかろう?言語学者たち、数学者たちの方を向いて、自分に欠けている道具を彼らが提供してくれるように、結論として、この欠乏証明書を作成するのは、神話学者の責任であった。その道具とは、二項性の、然りか否かの論理ではないような論理を、ロゴスの論理とは別の論理を備えた構造的モデルである。
(ジャン=ピエール・ヴェルナン『古代ギリシャにおける神話と社会』)

 ル=グウィンが描く物語の特徴には、@「ふたつの相反する性質やコミュニティが、全的・円環的なものとしてひとつに統合される」、A「肉体を極限状態に置く過酷な旅路の果てに、故郷=家(ホーム)への帰還する」というふたつの類型が挙げられる。まず@の「相反する性質の統合」という部分について見ていこう。例えばゲドと彼の影(『影との戦い』)、光と闇(『こわれた腕環』)、生者と死者(『さいはての島へ』)、カルハイドとオルゴレイン(『闇の左手』)、ウラスとアナラス(『所有せざる人々』)というように、ル=グウィンが舞台とする世界は、こうした明確に相反する二要素で構成されている。そしてこの諸要素はいずれも、ある種プラトン的なイデアめいたものに焦がれるように、純化・硬質化へと向かっていく。『ゲド戦記」の根幹をなす「真(まこと)の名』の規則や、『なつかしく謎めいて』のなかで、人間が死して地中に埋められて、千年の時をかけてゆっくりとダイアモンドに精錬される次元の物語が示すように、ル=グウィンの世界は、存在や具象が共時的にも通時的にも究極的にはひとつの純粋堅固な塊になることを夢みる世界だ。『ゲド戦記』四巻以降に明確に打ち出されるフェミニズムの記述はつねに、生物学的に改変不可能な性差を最終審級とし、男性が支配する世界のなかで周縁化され従属させられる女性、女性らしさを蹂躙する男らしさなどに対する糾弾となっているが、そのジェンダーの硬直性ゆえに、唯物論的、本質主義的に過ぎるとの誹りを受けることもやむをえない。
 ただしル=グウィンの用いる二分法は、私たちがロールプレイングゲームなどの影響で「光と闇のファンタジー」と聞けば条件反射的に想起してしまう勧善懲悪の図式ではなく、いずれの二項も互いなしには共存しえぬものとして、やがてはひとつの全的なものに統合される。しかしながら、「黒と白を混ぜ合わせると灰色になる」式に、やや楽観的にみちびきだされた均質性は、恣意的あるいはイノセントな愛情の暴力ともいえる排除の論理のうえに成り立っていると言えるのだ。フレデリック・ジェイムソンは、『闇の左手』を検証しつつ、ル=グウィンが作品の舞台となる世界を創り出す手法を「ワールド・リダクション(世界の縮小・還元化)」と名づける。「ル=グウィンの実験は、経験的現実に対する外科手術のような、システマティックな排除の原則に基づいている。それは、存在しているものや、現実とわれわれが呼ぶものに充溢する多様性を、ラディカルな抽象化や単純化の操作によって故意に間引き取り除く、存在論的な稀薄化のプロセスである」と述べている。
 『闇の左手』を先駆的フェミニストSFたらしめたゲセン人の両性具有性はそのプロセスを端的に示している。両性具有という概念は、性役割を脱神秘化し、性欲望をケメル期という周期的な発情期に収容する。そのとき欲望が去勢された人間から排除されるのは、性に重層決定される問題の一切のはずなのだが、作品では強姦や戦争を起こす闘争心といった害悪の側面だけが消し去られる。『闇の左手』における両性具有は、性を漂白して具現化される−−人間の文化的・社会的な行動規範や思考プロセスはどこまで性に規定されているのか、黒を黒たらしめ、白を白たらしめる要素とはなにかを不問にしたまま。こうして獲得される両性具有者の特性のもろもろは、外科的な摘出とジェイムソンが述べた、解剖学的幻想(ファンタジー)に支えられているのだ。
 このようにル=グウィン的な二項の合一を結末に据える物語は、光が闇を滅ぼしたり相克したりする戦いの記録ではないにせよ、盲目的に振るわれた暴力の痕跡を留めていて、そこには「全的な統合が犠牲にしたものの欠如や沈黙の物語」という「裏ヴァージョン」がアイロニカルなかたちで成立している。この文章の冒頭に述べた両義性の謎のひとつは、ここに起因しているように思う。ル=グウィンの作品は、はじめに世界の多様性をふたつの均質なものに分類してから、最終的にひとつの均質へと新たに人工的に精製し直すというプロセスを踏む。そのとき、ふたつが合わさってみえる表向きの物語を描くために舞台裏に消されたものの存在はいっそう強く喚起される。表にある統合と、裏に隠された排除は、同時に、同じ強度で生成され保存されている。言い換えるならそれは、作品が「揺るぎなさ」を獲得するために抑えられた「揺らぎ」が、作品の中に回帰してくることの両義性(アイロニー)である。


3 「円環する時間」と「振動する時間」
 この世では、ふたつのもの、相対するふたつのものがひとつのものを作りあげているのだ。万物と影。光と闇。天の両極。そして生は死から、死は生から生まれている。相対立しながら、両者は互いを求め、たがいに命を与え合い、永遠によみがえりを続けていく。
(『さいはての島へ』)

 次に、こうした二項の統合が、円環や球状のものとして描かれることについて見てみたい。そもそも『ゲド戦記』というタイトルのオリジナル表記は『アースシー・サイクル』であるし、『こわれた腕環』でアーキペラゴに平和をもたらす腕環や、『闇の左手』の予言の儀式における車座といったものがこの一例である。このイメージには、登場人物のする冒険の旅と、私たちのする読書の旅とがともに描く軌跡としての円や、また昔のひとびとが火を囲みながら行った、様々な文化創造の場としての円が含まれる。
 こうしてみると、Aの「肉体を極限状態に置く過酷な旅路の果てに、故郷=家(ホーム)へと帰還する」という特徴もまた、@「ふたつの相反する性質やコミュニティが、全的・円環的なものとしてひとつに統合される」という典型のなかに包摂されているヴァリアントであることが分かる。つまり、『闇の左手』の後半を占める圧倒的な描写、ゲンリー・アイとエストラーベンの決死の逃避行が端的に示すように、厳しい自然を通り抜ける旅の過程で、肉体は激しく消耗し、精神的にも物理的にも極限まで削ぎ落とされていく。このとき存在は、ジェイムソンのいう「世界の縮小・還元化」のプロセスの渦にのまれながら、ひとつの核あるいはダイアモンドのような、純化したものに高められていく。最後に旅の終着点に至るとき、その旅路は円環の軌跡を描いて起点に戻る。
 文明・社会・個人の成熟を進歩や上昇の階梯でとらえるヘーゲル的弁証法の歴史哲学や、過去−現在−未来の流れを連続した直線として認識する近代社会の時間感覚を、ル=グウィンは男性的・西欧的・キリスト教的なものだと拒絶する。それに代わるスタンスは、文化人類学者の父アルフレッド・L・クローバーの研究対象であったネイティヴ・アメリカンの伝承や、ル=グウィン自身が深く傾倒する陰陽の道教思想などに影響を受けたもの、すなわち一日に昼と夜、一年の季節の巡り、生と死の輪廻転生などが繰り返し永劫回帰する、円環状の時間感覚である。ところが、この「円環する時間」について真木悠介は「すでにわれわれの先入見である「時間は連続的に動いているはずだ」という前提が入り込んでいる」と述べ、エドマンド・リーチの考察を紹介している
 実際、いくつかの未開社会においては、時間の経過は、・・・・・・持続しない何か、繰り返す逆転の反復、対局間を振動することの連続として経験される。すなわち、夜と昼、冬と夏、乾燥と洪水、老齢と若さ、生と死という具合にである。このような図式にあっては、過去はなんら「深さ」をもつものではない。すべての過去は等しく過去である。それは単に現在の対立物にしかすぎない。
(真木悠介「時間の比較社会学」)

ここで、リーチは、原初の社会において二元的な世界認識から発生する二元的な時間感覚のことを、対局間を「振動する時間」と定義している。真木は「振動する時間」と「直線的な時間」との架橋となるのが「円環する時間」であると図式化しているが、ル=グウィンの創作の方法論の中にも、これと同じことがあてはまるのではないだろうか。つまり、物語の円環運動の中には、振動の動きが包摂されていると思うのだ。(P185〜)


 もうひとつ、ル=グウィンとベンヤミンを繋ぐ「現在に回帰する過去」という歴史観が現れている作品に『オールウェイズ・カミング・ホーム』がある。いまから五万年後の未来の北カリフォルニアに住むケシュ族の回想の書という設定で描かれているが、そのなかの「未来の考古学」という章題が示すように、物語は高度の文明を描くのとは逆に、遙か昔の民族の伝承や神話の様相を呈する。「未来は過去のなかにあり、過去は現在のなかになる」というル=グウィンの歴史観は、進歩という強風に未来の方向へと吹き飛ばされながら過去を見つめる、ベンヤミンの有名な「後ろ向きの歴史の天使」を想起させる。
 天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。僕等であれは事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストーロフのみを見る。・・・・・・強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方でかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりになる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、<この>強風なのだ。
(ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』)

 ル=グウィンの作品における天使、それは翼の生えた様々な生物たちである。『ゲド戦記』の竜は、世界が生まれた遙か昔から、永遠ともいえる時間を生きつづける、残酷で獰猛な動物として描かれる。竜たちはベンヤミンが言うところの「根源の歴史」生ける証人として、アースシーに君臨する。ひとびとが覗き込むことを畏れる竜の赤く燃える目は、根源の歴史という星々の輝きであり、いっぽう『オールウェイズ・カミング・ホーム』におけるコンドルの父や空飛び猫たちに対して、ル=グウィンが与える翼は、限りある命を生きる者たちに、束の間のいまと世界の広がりを見て回ることを可能にする、自由と想像力という双翼なのだ。(P188)
posted by みつこ at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ちいさな反応に気づく

あ、ちっさい見捨てられ不安、発動してるって朝一から気づく。

こういうことはホントに、どんなに精神的な安定感があっても、体調が問題なくても、全然起こらなくなったりするわけじゃなくてただ、
すみやかに気付くようになり
詳細に観察できるようになり
かろやかに流してあげられるようになる「だけ」なんだね。

マインド(思考、心の働き)は社会で生きてくためには必要だから、働かせている以上は、こういうしなくていい反応ももれなく付いてくる。そこだけ要りませんと言うわけにはいかないんだな。10円玉の表だけください、裏は要りませんと言えないように。マインドとはそういう性質のものだから。

まあ、でも裏があっても困らなくなったな。

起こってきた不安感そのものについて言えば、過去の出来事で身に着いた習慣的な反応パターンで、なにがきっかけで起こってきたのかもわかっている。長年慣れ親しんだ感情なので、ついそこに安住してしまいそうになる、不安なのに不安でいることが安心という矛盾(笑)。
反射的な反応に引っ張られずに一息おいてみる。例えばもし本当にその不安に思ったことが現実に起こったとしたらどうなるの?って考えてみても、確かに悲しいだろうし、さみしいと思うだろうけど、ただそれだけ、だということがわかる。それに、そこに付随するいろんな出来事を考えてみるとよかったことの方が大きいし、私はきっとその状況でも生きていけるし、しあわせを感じられるし、後悔もないんだよね。もしそうなるならそれでもいいって、躊躇なくうなずける。

それならなにも不安に思うことはないね、ってことがちゃんとわかる頃には、すっかり不安感も消えている。こういう健全な対処が自分の中に育っていることは、変化の経験という意味でも興味深いし、なによりとてもありがたいことだと思う。

起きてくる感情は起こるままにしてよく見ていてあげると、自分を困らせるようなことはしなくなっていくんだなあって、たまにはびっくりさせられることもあるけどねー(笑)。

最近こんなことが多い。
posted by みつこ at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生きていく力、進んでいく力

SIONゲストの福山くんのラジオで「石塊(いしくれ)のプライド」を福山バージョン、SIONバージョンそれぞれを聴く。
なんか眠くてちょっとぼーっとしながら聴いてたから、なんだか浴びるようにして染み込んできた全体の印象しか残っていなくて、曲がどうとか、アレンジがどうとか、もうよくわかんないんだけど、たぶん詞を聴きながら感じてたんだろうけど、力強く踏み出す一歩一歩の様子が映像としてイメージとして浮かんでたなあってこと。

子ども時代が終わったころ(それは人によって年齢は違うだろうけれど)、なんらかの熱さを腹にもって遠く東京に出てきた人のそのパワーには、なにかどうしても敵いそうにないものがある。世界に立ち向かう力みたいなもの。SIONもそうだし、福山くんも、福岡の人たちも。
人によっては、田舎がイヤで都会に出てきたとか言うのかもしれないけど、たとえそういう一見後ろ向きな動機だったとしてもだ。

つーか逆にここに生まれたから、街のエネルギーに気圧されて育っちゃってんのかもしれないとも思うけど。
posted by みつこ at 01:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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