2014年04月29日

LR「里亞王〜リア〜」

なにげなく見てた手話ニュースで紹介されていて興味を持ったので見てきた。

公式サイト
http://www.sapazn.jp/LR.html

「言葉」は台詞だけではない。
身体、手話言語、光や、空間に満ちる豊潤な言葉にこそ
私たちは心を奪われる。

キコエナイ俳優とキコエル俳優は優しき混沌から何を聴くのか。

「利」と「理」が絡み合う、人の愛と因果の物語。


conфetti(コンフェティ)のレポート
http://conpetti.com/LS/?p=1031

--シェイクスピアの「リア王」手話版、「里亞王(リア)」--
「手話言語、音声言語、身体表現さまざまな方法を駆使した新たなシェイクスピアの世界。30名以上のオーディションから選考した聴こえない俳優5名、聴こえる俳優8名、そして聴こえないスタッフ6名、聴こえるスタッフ10名が共同して舞台を創り上げている。」


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舞台音楽が生演奏なのはとてもよい。こないだOVO見たときも思ったけど、今日のもまた良かった。今日はバンドじゃなくて、パーカッションひとりと、俳優も随時参加する音響。聞こえなくても空気から響いてくるビリビリ感、臨場感。

舞台装置、音響、衣装・メイク、身体表現、一人で何役かする俳優が何人もいたけどその演じ分け方、ろうの俳優と聴の俳優のセリフのやり取り、とかとか、随所に工夫が見てとれて、おもしろかった。

ろうの俳優の手話のセリフを、通訳とか音声案内的なことではなく、舞台上または舞台袖にいる他の俳優が声で出すというのはとてもよかったと思う。ひとり何役かやっていながら、ひとつの役をふたりで演じている感覚も同時にあって、誰が何の役というよりも、演者全員で芝居全体を演じているとでもいうのかな、そんな一体感が感じられた。

一方で、聴の俳優は音声セリフと手話セリフを本人が同時にやるっていうのはやっぱりムリがでるよなあと。手話の言い回しはただの日本語の単語の置き換えにならないようにかなり工夫されてるというのはわかったけど、だからこそに音声で出してる言葉と手話で出してる言葉が前後したり違う表現を選んでいたりするから、それをひとりの人が同時にやるのは苦しいし、どうしてもネイティブじゃない方の手話が不自然になる。あの手話は、ろうの観客は理解できたのだろうか?そこだけ、かなり気になったな。

##事前に台本の無料貸し出しサービスが用意されていたけどね、そうやってストーリーを理解するってことと、舞台そのものを観て理解するってことは全く別モノだし、事前にストーリーを読んでおくことで、舞台がよりよく理解できるのは確かだけど、台本ネタバレしちゃうのはやっぱりイヤだなあ、個人的には。##

ろうの俳優は自分の手話のセリフ・演技に集中出来てる感があって、みんないい芝居だったなあ。聴の俳優もみんなそれぞれによかったけど、やっぱり頑張って手話やってる感がどうしても出てしまって、もったいなかった。
誰でも楽しめるということを目指す心意気は伝わったし、総じてよく練られた構成で見応え充分だったけど。

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これっていつもぶつかる問題なんだけど、これが音声言語の外国語だったら絶対に両方同時になんてことにはならない。それは単にふたつの音声言語を同時に発声することができないから、声はひとつだけだから。それが手話と音声言語になると身体を動かすことと声を出すことが「物理的に」並立できてしまうから、だたそれだけの理由でふたつの言語を同時に話すことを強いられることになる。これは、手話言語を身につけた聴者がしょっちゅう陥っている苦しい場面である。

いっそのこと、手話で話している間は声が出ませんというからだに「物理的に」なってしまうならいいのにとまで思うことがある。
posted by みつこ at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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